仮想現実に降り立つ
仮想現実という考え方が、この世に登場したのは一体どのくらい前なのだろう。
安直にWikipediaで「バーチャル・リアリティ」の検索をかけると、すでに1935年には、スタンリイ・G・ワインボウムという人が書いた小説の中に、ゴーグル型のVRシステムが登場しているらしい。
1935年。実に85年前である。
想像こそすれ、実現にはまだまだ技術が及ばない事柄は多々あるが、仮想現実は徐々にその枠から外れつつある。もちろん完全な(と言うと定義が難しいが、ここでは五感のすべてをカバーし、現実と比べても遜色がないくらいと捉えてもらっていい)仮想現実空間の構築にはまだ時間がかかるであろうし、技術が追い付いてもそれが一般化されるのはさらに先の話だ。
しかし、たとえ完全とまではいかなくとも、家庭で使えるVR機器が売られ、環境さえ整えることができれば、各個人がいつでも仮想現実世界に足を踏み入れることができる世の中になったのである。
家庭だけでなく、おそらくこちらのほうがより多くの人になじみ深いだろうが、娯楽施設にVRを利用したアトラクションを構えるところも増えてきた。
もはや仮想現実は絵空事でも何でもなく、目と鼻の先にいつもあるのだ。
先日VRChatにデビューし、そのことを改めて実感した。
別に何か大げさな機能や仕掛けがあるわけではない。チャットなのだから、他人と話すのがメインコンテンツであり、それはVRであろうと変わらない。
けれど、そこには圧倒的な未来感があった。
友人の勧めでVR機器を購入し、「Half-Life」で遊ぶなどVRには少し触っていたけれど、それとは別種の未来感であった。
繰り返しになるが、言葉にしてしまえば何のことはなく、同一空間にアバター姿で人々が集まり、話すだけである。
未来感の源は何か?
それはおそらく、アバター姿でリアルでは接点のない人たちと仮想現実空間で話をしているという、その行動自体に付随するものだろう。映画や小説など、フィクションの中では何度目にしたか分からないあの状態に、今自分がいる。単純に、その感動からくるものかもしれない。
仮想空間というくらいだから、距離による声の聞こえ方は再現している。アバター同士の距離が離れれば相手の声は聞こえず、近くでたくさんの人間が同時にしゃべりだした時の聞こえ方も、距離に応じた大きさだ。そうした細かいことが「そこにいる」感じを強烈に醸し出す。人が集まっている、ということが現実感をもって立ち現れる。
そんな中で、他愛ない話をしたり、アバターを変えて遊んでみたりするのだ。
何かSF作品の登場人物になった心持がするのも、あながち映画の観過ぎとは言えないのではないか。漠然と、ここまで来ているんだと、技術の進歩に思いを馳せたくなったりする。
しかし、個人で機器を購入できるようになったとはいえ、その価格はまだ手軽とは言い難く、VR空間の人口はまだまだ少ない。VRChatでは、初めてやってきた私のチュートリアルを見知らぬ人たちが親切に手伝ってくれたが、そうした和気あいあいとした雰囲気も、人口が少ない今だけのものとなってしまう可能性は高い。
人が増えれば悪いこと考える者も現れ、その分雰囲気が殺伐としてくるのは、何にでも当てはまることである。もちろん人が増えることには、悪いことばかりではないが。
仮想現実に未来感を抱くのは、それが無い時代を生きてきたからである。生まれた時から身近にあっては、そうそう未来感もないだろう。そうしたネイティブ世代の人たちが仮想現実に抱く思いとはどんなものなのだろうか。
それこそ、仮想現実空間でそういう話の出来る日が来るといいなと思う。